そんなことを訊かれても (内田樹の研究室)

そんなことを訊かれても (内田樹の研究室)

「私はどうしたらいいんでしょう?」という問いはすでに自分が置かれている状況についての予断を含んでいる。そういう問いが出来る人は「申し訳ありません。あとは私がなんとかします」という「店長」が存在するということを前提にしている。
だが、世の中には「店長がいない」局面というものが存在する。
私たちが陥った苦境について、誰も責任を取ってくれない、誰も状況説明をしてくれない、誰もどうすればいいかを教えてくれないという局面が存在する。
そのような危機的状況のことを国際関係論では「デインジャー」と呼ぶ。それに対して、「責任者がいる」危機的状況のことは「リスク」と呼ぶ。
リスクは「マネージ」したり「コントロール」したり「ヘッジ」したりできる。「デインジャー」にはそういう手が使えない。
喩えて言えば、サッカーの試合中に「試合に負けそう」というのは「リスク」である。試合の帰趨は選手交代やフォーメーションの変更や監督の罵声などでコントロールできるからである。それに対して、サッカー場がテロリストに襲われるというのは「デインジャー」である。テロリスト相手には「こういう場合にはどうすればいいか」についての一般解が存在しないからである。デインジャーからは、自力で、自己責任で、自分の才覚で脱するしかない。
「私はどうしたらいいんですか?」という問いを口にできるということは、「私が直面している状況はリスクであって、デインジャーではない」という状況判断を下したということである。それは言い換えれば「誰かが答えを知っている」「答えを知っている人間はそれを開示すべきだ」「オレにも教えろ」という一連の推論をなしたということである。
その危機感のなさが私たちの時代の若い方々の危機の本質的原因だと私は申し上げているのである。
率直に言うが、日本社会はすでに「前代未聞・空前絶後」の社会状況に入っている。人口の不可逆的な減少、それによる経済活動そのものの縮小ということを経験したことのあるものは先進国には存在しない。ということは「こういうときはどうすればいいか、私は知っている」と言うやつがいたら(経済学者でも国際政治学者でも)そいつは「嘘つき」だということである。

「ヘッジ」も「マネージ」も「コントロール」もできないリスクは、もはやリスクとは呼べなくて「デインジャー」と位置付けられる。
内田樹さんが説明している「国際関係論におけるディンジャー」のような考え方は、ファイナンスでシステマティックリスクと呼ばれているものに等しいのだと思う。

前者のリスクは、個別証券が、市場全体の変動により受ける相対的なリスクであり、通常、ベータ値等を用いて表されます。システマティック・リスクは、投資家が、分散投資を行うことによって消去可能なアンシステマティック・リスク(非組織的リスク)と異なり、分散することによっても消去不可能なリスク(組織的リスク)であり、投資家が負担すべき本来的なリスクといえます。
システマティック・リスク 〜 インフォバンク マネー百科

勝間和代さんが薦める「インデックスファンドへの長期分散投資」も、アンシステマティックリスクを極小化するという観点では、相当マシな選択肢ではあるけれど、タイミング次第ではバブル崩壊リーマンショックへの備えには全然不十分となる。
企業のレベルでも同様で、会計監査で内部統制文書を提出して、そこに緻密なリスクコントロールマトリクスが添付されていたとしても、環境の悪化が避けられないのは、ディンジャーの存在を無いものとしていることによる。

現状のコントロールを正しく評価し、リスクを回避するのに十分なコントロールを実現していくことが目的。ここに記述されたコントロールは運用テストの対象となり、コントロールが適切に行われているかどうかを第三者が評価する。「業務記述書」「フローチャート」と並んで、内部統制の文書化の対象となることが多く、監査の観点から、3つの文書の中でも特に重要な文書とされる。
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デインジャーの存在に目をつむることは、色々と不幸の種になるけれど、デインジャーに真っ向から対峙しようと決心したところで、そこには何も定式化された策が無いということが、内田さんの記事の締めの言葉につながる。

健闘を祈る。

だってそんなこと言われても、と、まずは言葉に詰まることになる。

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長々と小難しい話を書いたのは、昨年末に入ったラーメン屋で、器にゴミが入っていて食べることができないから店長を呼べと、店員に延々30分詰め寄り続け、なおも店員にあしらわれ続けていた青年が印象に残っていたからに他ならない。