イノベーションの神話

イノベーションの神話

イノベーションの神話

アート・オブ・プロジェクトマネジメント ―マイクロソフトで培われた実践手法 (THEORY/IN/PRACTICE)の著者による新刊を読み始める。グーグルやアマゾンやpcや携帯電話といった、いわゆるイノベーションは、神格化されたストーリーとともに語られるけれど、実はもっと地味で継続的な努力の結実なのだという。

2章 神話:私たちはイノベーションの歴史を理解している
歴史学者のエドワード・カーは、古典とも言える「歴史とは何か」の中で以下のように述べています。

事実が雄弁に物語るという表現がよく用いられる。これはもちろん誤りである。事実は歴史学者が求める通りに語るのだ。どの事実を取り上げ、それをどのような順序で、あるいはどのような文脈で述べるのかを決めるのは歴史学者なのである。……事実とは袋のようなものだ−−その中に何かを入れなければ説得力は生まれない(won't stand up:[1]自立する,[2]説得力を持つ)のだ。

客観的な歴史など存在しないというショッキングな秘密によって、歴史の先生が無数のトリビアを拷問のように生徒たちに学習させ続ける理由を説明することができます。万人の口に合う内容を教えるということは、観点、意見、人間性を排除することになり、判りにくく、退屈でつまらない、無味乾燥な事実となってしまうのです。
こういった観点から見た場合、イノベーションの歴史において払拭すべき最大の神話は、進歩が一本の道に沿って発生していくというものになります。

コロンブスの新大陸発見や、ニュートン万有引力、ローマの建築技術などの歴史上の事実を引き合いに出して、後から語られるストーリーが筋道だっているように見えても、実はそれは(必然的な)恣意性の色眼鏡を通して見えているものだという。
努力も思索も試行錯誤もせずに、ひらめきが得られることはない。では、どのような姿勢がイノベーションにつながるのか? というのは、先を読み進めなければわからない。
ただ、「事実は歴史学者が求める通りに語るのだ」というステートメントを、多くの人が心の隅にとどめておくというのは、結構大事なことではないかと感じる。民族問題だとか歴史認識だとかがセンシティブな問題であって、ときどき感情的な議論が巻き起こる(少なくとも、そういう風に報道されている)のは、結局のところ、歴史は首尾一貫したものだという幻想によるはずだから。
イデオロギーというのは、「事実という袋に、何が入っているのか(あるいは、入っているべきか、入っていてほしいのか)?」と、問いかけることかもしれない。シュレディンガーの猫ではないけれど、その答えは蓋を開けてみたときに判明する。そして、幸か不幸か過去の歴史の蓋を開け直すことはできない。だから、感情論の入り込む余地が残ってしまい、争いは尽きない。