ウェブ時代をゆく

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

梅田望夫さんの新刊。
現代は、産業革命前夜や明治維新前夜の時代と同様、ウェブによる大変化を控えた時期であるという。
ウェブのもたらす大変化とは、個人や小組織が、大組織に対抗するためのインフラをただ同然で利用できること、そして個人が能力や人脈を強く望んだときに、それを手に入れるための「高速道路」が用意されることを指す(これが、ただのオプティミズムでないことは、「情報の非対称性」や「規模の経済」といった制約に、googleが与えるインパクトを思い浮かべると、容易く想像できる)。
それでは、個人が「高速道路」を駆け抜けたその先に「高く険しい道」を目指す、あるいは「けものみち」を突き進むために、必要な姿勢とは何であるのか?

in the right place at the right time
私たちは、無意識のうちに様々な選択をしながら日々行動しているわけだが、その選択・行動パターンによって、運や偶然をつかむ人とそうでない人がいる。その人が磨いてきた能力に加えて「正しいときに正しい場所にいる」ことが重要で、それは突き詰めて言えば、誰かの心に印象を残し、大切なときにその誰かから誘われる力なのである。
進取の気性に富む、積極性、自己表現欲求、広い問題意識、高速道路の外の世界への関心、情報収集力、行動力、積極性、勇気、スピード感、常識、明るさ、素直さ、人に好かれる性格、コミュニティ・リーダーシップ、段取り力、コミュニケーション能力、気遣い、やさしさ、柔軟性、反射神経的に判断して物事を決める力。
けものみち力」の要素をこう列挙していけば、とてもこれらを兼ね備えるのは至難の業のようにも見えるが、人間としてごく常識的で、少し積極的に日常を丁寧に生きることに他ならない。

筆者は、これを「けものみち力」と名付けるが、おそらくこれは、「大組織適応性」を持った人が、その中でサバイバルするための力に共通するものがあるはずだ。
「好きを貫く」ことと大企業への就職 - My Life Between Silicon Valley and Japan
「大組織適応性」については、本書で7項目が示されている。これは、村上春樹が「ノルウェイの森(上)」で、国家という官僚組織に就職しようとする「永沢さん」に語らせる「紳士であること」の定義に重なるものがあると感じる。(以下、原文から一部省略の上で引用)

「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲とかいうものは殆どない。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力を試してみたいんだ」
「そして理想というようなものも持ち合わせてないんでしょうね?」
「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想ではなく行動規範だ」
「ねえ、永沢さん。あなたの人生の行動規範っていったいどんなものなんですか?」
「紳士であることだ」
「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」
「あなたは僕がこれまであった人の中でいちばん変わった人ですね」と僕は言った。

「変わった人」と、20歳で学生の「僕」に言わしめてはいるけれど、実はこの「行動規範」とは「大組織適応性」に似通ったものなのではないか。
自分のことについて。
自分自身も、「大きな組織」に属する一人ではある。組織自体が市場に淘汰されるリスクは眼前には迫っていない。だけど、組織がリソースをコア事業に「選択と集中」する結果として、自らの仕事が外部に切り離されるリスクというものは、外部を見回してみると充分に考えられる。(そして、「未来永劫(あと30年ぐらい)安泰な組織」などというものは、原理的に存在し得ない。)
そういう状況では、本書で述べられている通り「Only the Paranoid Survive(病的なまでに心配性な人だけが生き残る)」という危機感の下で「自助の精神」を持って日々過ごすことが必要。
しかし「大きな組織」に属したまま、「自助の精神」で「もうひとつの地球」上での活動範囲を広げていこうとしたときに、次の引用のような「ルール違反」という問題がついて回る。(例えばアフィリエイト収入と副業禁止規定の関連など)

ウェブ時代は自由で個人が活躍できるぞっ、と思ったらどうもさにあらず。
世の中、なんだか重苦しい。遊ぼうとしても、消費しようとしても、あんまり心が躍らない。
どうしてだろう?それは、こんなひとたちが増えているから。
他人の「ルール違反」を指摘することに「正義」と「喜び」を感じ、実は自分がとるべきリスク(と楽しみ)から逃げているだけ。見渡せば、テレビの報道も社会も経済の世界も、「ものをつくったり」「消費したり」「楽しんだり」するよりも、なんだかみんながひたすら「管理しあう」ことで疲弊している……。

ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会:日経ビジネスオンライン

確かに、今はどうにも息苦しい時代ではあるんだなとがっかりする。そうしているところ、今日の日経夕刊に小椋佳のインタビューが掲載されいて、そこに「第一勧業銀行に勤めながら、作曲家としての副業を続けてレコード大賞まで取ってしまった」という話があった。

●1975(昭和50)
布施明に「シクラメンのかほり」を贈る。7月、東京キッドブラザーズに作品提供。 8月、布施のアルバム『シクラメンのかほりから』全曲を作詞・作曲。また、竹久夢二の遺作に作曲した作品集『あけくれ』を発表(曲は竹久普士)。10月アルバム『夢追い人』発表。始めて海外録音。10月からの新番組の主題歌を数曲担当〔『遠きにありて』(NHK)−「遠きにありて」、『黄色い涙』(NHK)−「海辺の恋」、『娘たちの四季』(フジテレビ)−「めまい」、『俺たちの旅』(日本テレビ)−「俺たちの旅」(唄は中村雅俊)〕。 『シクラメンのかほりレコード大賞受賞。 メリルリンチのニューヨーク本社とパリの欧州本部にトレーニーとして派遣される。帰国後、証券部に。社債の受託業務に従事。

http://www.gfe.co.jp/ogla/profile2.html

実際、ウェブページのプロフィールの年譜を見てみても、見事に作曲家と銀行員の二足のわらじを履いた経歴が並んでいる。いまより30年以上も前に、「大きな組織」の代表格ともいえる都市銀行で、完璧な二足のわらじを履いた人がいるという話は興味深い。
これはもちろん「東大法学部卒で才能のある作曲家」という経歴を持ってして、初めて成し得る達成ではある。だけど、「もうひとつの地球」という可能性が現実のものとなりつつある今、二足のわらじに対する社会の側のコンセンサスに「寛容」という変化が訪れれば、もっと生き方も変わっていくんだろうにと夢想したくなる。