象徴的貧困

『「象徴的貧困」とは、過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態』(ベルナール・スティグレール
『問題なのは、一人一人の個人に合う情報を前もって選択してくれる新しい技術の進化。たとえば特定の趣味や傾向を持つ人には、ネットの接触履歴などを機械が自動的に読み取り、同じようなサイトや本の情報だけを選んでくれる。
「いつも自分にとって快適な情報だけに囲まれていることになる。情報は多様化していても、実際に個人が手にする情報は多用だとは言えなくなっている」』(石田英敬
朝日新聞夕刊:『象徴的貧困−過剰な情報が画一化促す』,2005.02.14)

ベルナール・スティグレールという人が、象徴的貧困という考えを提示している。これは要するに、「メディアが作り出す気分に人々が動かされる状態」のことらしい。記事中でインタビューを受けている石田英敬が、高校生向けセミナーのスライド(⇒PDF)で、その概略を説明している。
確かに、こういう傾向はあるような気がする。Amazonのページを開くだけでも、過去に検索した本の類書がずらずらと表示されてくるのもそうだし、mixiの「コミュニティ」を見てみても、皆似たようなメンバー構成だったりもする。
また、「画一化」という面で見てみると、Yahoo!のトップページに表示されるトピックスなんかも顕著な気がする。たとえば、今日のトップページには「サソリ女とムカデ男が結婚式」という記事が表示されているのだけど、翌日友人にあったときにこの話題を出してみると、結構な確率で何のことだか分かってくれる(自分の交友関係にバイアスがかかっているのかもしれないが…)。
AmazonやMyYahooなど、カスタマイズされた情報を届けてくれる仕組みは充実しつつあるし、RSSフィードSOAPを使ったWEBサービス・エージェントが実用化されたりすると、どんどん便利に「快適な情報」が目の前にある状態が作られてくる。
象徴的貧困に陥らないためには「紙おむつとビール」的な情報を、せっせと自分のために集めてきてくれるようなポータルサイト/エージェント技術を使ったサービスで、なにか面白いものが作れそうだ。