これからの「正義」の話をしよう
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
- 作者: マイケル・サンデル,Michael J. Sandel,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/05/22
- メディア: 単行本
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「選択の自由がある社会は良い社会だ」というメッセージは余りにも自然で、それ自体に異議がつくことは余りない。特にアメリカでは、その傾向が強いのだと思う。
しかし、それを政策や政治的な意思決定にそのまま適用しようとすると、色々と問題が起こるというのが著者の問題提起。
"究極のジレンマ"ともいうような、極端な事例をベースに積み上げながら、「選択の自由」と「中立的な正義」という、二つの対立する考え方を哲学者の紹介とともに説明が進む。
- 選択の自由
- 中立的な正義
いずれの考え方も、突き詰めると極端な結論に到達してしまうということを、十分過ぎるぐらい納得させられた上で、著者の主張にもつながる、アラスデア・マッキンタイア著「美徳なき時代」から、「物語る存在としての自己」という考え方を引用する。
マッキンタイアは周到に、物語による説明は現代の個人主義とは相容れないと認めている。「個人主義の立場から言えば、私という人間は私自身がそうであることを選んだものだ」。この姿勢は、「自己は社会的・歴史的役割や立場から切り離せる」という誤った前提に立っている。
自己についての物語的見解との対照ははっきりしている。私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語のなかに埋め込まれているからだ。私は過去を持って生まれる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係をゆがめることだ。
これは、リベラリズムという考え方に対する批判ともなる「コミュニタリアン(共同体主義者)」という考え方の主張であるということ。
現代のアメリカは、政策決定や社会的合意形成において「正しさ」について考えることを放棄してしまっていて、その結果として「自由」に重きを置き過ぎている。そのために、何か常識的なバランスを欠いた非効率な社会に陥ってしまっているのだ、というように著者のメッセージを受け取った。
これは今の日本にも、全くそのとおり当てはまる懸念であると思う。日本では、「何か悪者を見つけて、叩く」という構図が繰り返されるという形で、この症状が発現しているのだと感じる。
では、どうすればいいのかというと、難しい。リベラリズムが諸悪の根源だからコミュニタリアンに社会の主軸を大きく傾けていくべきだという程、簡単な問題ではない。著者も明快な答えは提示しておらず「もっと活発で積極的な市民活動が必要だ」という啓蒙的なメッセージに留めて結論としている。
このメッセージを受け止めて「自分の頭で考える」という地道な方法しか、対処はないのだと自分も感じる。