1Q84(19章まで)

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

村上春樹さんの新刊。
前作までの長編小説とも通じる設定・構成に、まずは安心感のようなものを受ける。これまでと一緒だ、と。二つの別々の物語が交互に描かれて、徐々に近づいてくること。「あちら側の世界」と「こちら側の世界」が、やはり徐々に近づいてくること。「ねじまき鳥クロニクル」以降の、デタッチメントからコミットメントへの変化。「ノルウェイの森」以降の、性的なものや暴力的なものも、正面から語られていること。「僕」ではなく、個々の名前を持った主人公が、第三者的な視点で語られること。

好もうが好むまいが、私は今この「1Q84年」に身を置いている。私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。今は1Q84年だ。空気が変わり、風景が変わった。私はその疑問符つきの世界のあり方に、できるだけ迅速に適応しなくてはならない。新しい森に放たれた動物と同じだ。自分の身を護り、生き延びていくためには、その場所のルールを一刻も早く理解し、それに合わせなくてはならない。

一方で、前作までとはハッキリとした相違点もあって、そこに驚くことになる。
それは、「小説自身が、現実的に、社会的に影響力を持ち得ることを自覚して、積極的に活用しようとしているように見える」ことにある。物語としての整合性、あるいはつじつまは、これまでは「あちら側の世界」の論理で説明されていた。そのために、深く共感はできるものの、現実の世界をまったく別のものに抽象化して得られる共感に限定される。だけど今作では、「こちら側の世界」の言葉で、物事の理由や必然性が語られる。物語の役目をしっかりと引き受けている。

ある章で奇妙に思うことや説明不足に思うことも、次の章をめくると、その物事の必然性が具体的に説明されて、納得せざるを得なくなる。物語であることに変わりはないのだけれど、「超常的なもの」の力を借りることなく、共感を引き起こされることになる。

そして物語中では、どこまでがフィクションであり、どこからが現実をモチーフとしたものであるのか、ということが明確に区別して示されている。前者が「1Q84年」の出来事であり、後者が「1984年」の出来事である(もちろん、自分自身が4歳だったときの日本社会の出来事を把握できてはいないので、本当にそうかは分からないけれど、少なくともそう信じさせる書き方がされている)「現実をモチーフとしたもの」については、具体的な現実社会の団体を(あえて)連想させたり、現実の国家や世界のあり方を、時に、かなり効果的に批判していたりもする。自身の小説の持つ影響力を自覚したうえで、あえてその影響力を用いて正面からメッセージを発信しようとしているようにも見られる。

エルサレム賞 - gt-uma