すべてがFになる

すべてがFになる (講談社ノベルス)

すべてがFになる (講談社ノベルス)

元名古屋大助教授の推理小説オブジェクト指向をモチーフにしているけれど、実際は、その抽象化という側面とバーチャル・リアリティの関連に焦点を当てている。1996年初版ということと、現在とを対比して読むと面白い。

「先生……、現実ってなんでしょう?」
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ。普段はそんなものは存在しない」
「でも、現実と夢とは明らかに違うでしょう?」
「他人の干渉を受ける、あるいは他人と共有しているという意味で、現実はやや自己から独立したものとして自覚されているね……。でも他人に干渉を受けない、あるいは他人と共有しない現実も、一部分だが努力すれば構築することが出来るだろう?例えば、未来には、必ず個人の現実はそういった方向に向かうはずだ。何故なら、みんながそれを望んでいるからね。だから……、現実は限りなく夢に限りなく近づくだろう」
「他人の干渉を受けたい人だっているわ」
「そう、ほとんどの人は、何故だか知らないけど、他人の干渉を受けたがっている。でも、それは、突き詰めれば、自分の満足のためなんだ。他人から誉められないと満足できない人って多いだろう?でもね……、そういった他人の干渉だって作り出すことが出来る。都合の良い他人だけを仮想的に作り出してしまう。でも、都合の良い、ということは単純だということで、単純なものほど、簡単にプログラムできるんだよ」
「そうやって、個人を満足させる他人をコンピュータが作り出して、その代わり、人はどんどん本当の他人とコミュニケーションを取らなくなる……、ということですか?」
「そうだね……、そう考えて間違いないだろう。情報化社会の次に来るのは、情報の独立、つまり分散社会だと思うよ」

2008年の現在でも、「情報の独立」だとか「分散社会」といった考え方は生きている。だけど、その目指すものは「個人を満足させるための、無機的なVRの実現」というよりは、「他者とのコミュニケーションの時空間的な制約からの解放」という方向に活用されている。
人工知能だとか人工生命といったものは、それぞれの分野で研究は進んでいるのかもしれないけれど、広くいろいろな人にそれ自体が受け入れられているかというとそんなことはない。セカンドライフなども、VRとしては興味深いものの、大ヒットもせずに縮小されていったのは、やはりコミュニケーションの見せ方という技術自体は関心の中心にはないためだという気もする。
まずはSNSやブログ、そしてSBMRSSといったものが受け入れられていく流れが出版から12年経った現在の状況。

日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」
「混ぜるっていう動詞は、英語ではミックスです。これはもともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるんじゃなくて、つながるだけ……。つまり、日本は、液体の社会で、外国は固体の社会なんですよ。日本人って、個人がリキッドなんです。流動的で、渾然一体となりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では、個人はソリッドだから、けっして混ざりません。どんなに集まっても、必ずパーツとして独立している……。ちょうど、土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです」

集合的無意識」的なものの第一段階が民話や神話の世界、第二段階がマスコミによる情報伝達だとしたときに、第三段階として今のウェブ化の流れがあると考えると、この先しばらくの技術動向がもたらすものの行方が興味深く思えてくる。