私塾のすすめ

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

[齋藤]ネットのコミュニケーションで僕が驚くのは、本の著者がブログを持っている人の場合、ネットを通じてその著者に直接アプローチするということです。僕自身は読書世代でしたから、ちょっと感覚が違います。若い頃は、本を読んでも、著者というのはまったくこちらを知らない、相手にしてくれない存在なわけだから、その人から一方的に意見を聞きながら、それを「自己内対話」に変えていく、という回路を作り続けていました。自分のことを著者にわかってもらいたい、そういう欲求は持ったことがないんですよ。そうした気にはならなくて、自分の心の中に、著者の言葉を優れたものとして残していく、そういうことに慣れていました。
[梅田]僕も基本的には齋藤さんと同じ考えでこれまでやってきました。特にロールモデルの対象たるあこがれの人には、対等な立場だと世の中が認めてくれるまで絶対に会わないというルールを勝手に作っていました。でもこれから時代が大きく変わって、本を書くような人なら皆、ネット上で私塾を持っている状況が生まれて、若い人たちがそこに自由に参加して、知的な素晴らしい経験ができるようになればいいなと思います。ただそこでも「自己内対話」はとても大切ですね。

ここで言われている「自己内対話の糧」として、自分がロールモデルとしたい人物とのコミュニケーションができるということは、インターネットがもたらした大きな効能の一つだ。1997年、17歳だった頃に、僕は坂本龍一氏と村上春樹氏に電子メールを送り、そのどちらからも返事が返ってきて驚いたことがあった。
当時坂本さんは、コンサートをストリーミング中継したり、コンサート会場にインターネット経由で受けたメッセージを表示する電光掲示板を設置したりと、実験的なことをやっていた。その一環として、ツアー期間中にメーリングリストを設置して、一般の人とのメッセージ交換の場を設けていた。その場で僕は「どうすれば、音楽の中の音を聴き取ることができるようになるか?」とひどく漠然とした質問をして、「とにかく沢山の音楽を繰り返し聴くことが大事だ」と、やはり至極もっともな回答を受け取った。
そして村上さんは、雑誌のコラムと連動しながら、1年程度の期間限定で読者からのメッセージを電子メールで受け取り、それに対して返信をするというプロセスを、ホームページ上で公開していた。そこで「xx大学に行きたいと思い、図書館で調べたら設立の経緯について悪印象を受けたが、行って大丈夫だろうか?」という、(限りなく無意味な)質問をしたら、「大事なことは、自分がやりたいことは何かを熟考することだ」と、やはり真っ当で真摯な回答がメールボックスに届いていた。
これはどちらも、今思えば他愛のない往復書簡に過ぎないけれど、それでもそこで受けた回答というものを受け止めて反芻してきたことを思えば、十分意味のある出来事だった。しかし、このようなロールモデルとのメールでの直接的な対話というのは、持続的に維持していくことはコミュニケーションのコストという点で非常に困難なものとなる。いずれの例も、村上・坂本の両氏が期間限定で集中的に時間を割いたから可能となったものであり、また1997年という時期も幸いしていた(TCP/IPを標準搭載したWindows95とIE3.0が普及しはじめた時期で、ネットでのコミュニケーションについて、アーリーアダプターとしてのメリットを享受できたぎりぎりのタイミングだった)。
2008年の現在では、このような場は、梅田望夫氏と齋藤孝氏の提示するような、ブログを一つの軸とした「私塾」となる。直接的にメッセージを送るだけではなくて、考えたこと/共感したことをオープンに書き記すことからも始まる。

[齋藤]リーダーとは、役職以上に、「ポジティブな空気を作ることのできる人」だと言えますね。リーダー的存在がそのポジティブな空気を体現していると、入ってくる人はみんな、その空気に染まる。
[梅田]そのポジティブな空気は、リアルの世界だけでなく、ネット上にもつくりうる。しかもオープンにしたままで。そのあたりに、これから挑戦すべき課題がたくさんあると予感しています。
[齋藤]読む側も、色々なブログを読むことで「志向性感知アンテナ」みたいなものが磨かれる。それは仕事をしていくうえで、一番大切なアンテナかもしれないですね。情報を検索する能力以上に、志向性アンテナのほうが、人生にとっては大きな影響を及ぼすのではないかと思います。
[梅田]まったく同感です。これからの時代は、新しいタイプの強さを個々人が求められていくと思うんです。その強さとは何かを突きつめて言えば、オープンにしたままで何かをし続ける強さ。たくさんの良いことの中にまざってくる少しの、でもとても嫌なことに耐える強さです。そこを乗り越えて慣れてしまえば、全く違う世界が広がる。

TV(放送)とネット(通信)の違い。流れてくる放送をただ受け入れるか、志向性アンテナで探しに行くか。そして見つけたメッセージを、自己内対話を通じて、いかに自分の中の物語に取り込んでいくか。さらに、物語が独りよがりな思考のループに嵌らないために、邪悪な意思を持った他者の物語をうっかり鵜呑みにしないために、あるいは、自分がいずれ発信者となり、他者と関連していける可能性を高めていくためにも、オープンに表現をして確認していくことが有効。
しかしオープンに表現することには、ネット・実世界に関わらずリスクが伴うので、足がすくみやすくなる。

[梅田]会社というのは融通無碍で、能動的に動くと、いろんなことが通る。それなのに、能動的・積極的に会社に働きかける人というのがどうしてこんなに少ないのだろう、といつも思います。(略)それは、「ノー」と言われることに対して弱すぎるんだと思いますね。人間が人間を理解するとか、ある人が何かをしたいと思ったときに、相手がきちんと受け止めてくれるということのほうがめったにおこることでない。そういう事実を、ベースにおかなきゃいけないと僕は思います。(略)僕は基本的に、ものごとというのは、だいたいのことはうまくいかないという世界観を持って生きていますね。だから、一個でも何かいいことがあったら大喜び。そのへんがまだ十分に伝えきれていないところなのですが、世の中に対する諦観がベースにあります。
[齋藤]提案と自分の全人格は、まったく別のものですよね。提案はいくらでもできるものだし。提案は自分の全人格とは別なのに、提案の否定を人格の否定というように受け取ってしまう。逆に言えば、他人に全人格を肯定してもらってどうする、そこまで贅沢になっちゃいけないんじゃないの、と思います。

良い意味での図太さが必要。言い換えれば、これを得ることが年齢を重ねていくことの一つの意義かもしれない。