書き初め

初詣よりも先に、ブログのエントリーを書くのは私ぐらいかと思いつつ、「新年の最初のエントリーを何と呼ぶべきだろう」と考えてみたのだが、単に「書き初め(かきぞめ)」で十分だと思う。昔の人は文章を書くと言えば筆を持っていたわけで、元々はその第一筆を「書き初め」と呼んだだけのこと。それならば、キーボードをたたくブロガーの第一筆を「書き初め」と呼ぶのは当然ではないかと。

Life is beautiful: 「書き初め」でよくない?

「書き初め」と「ブログエントリー」との対比。古典の「土佐日記」や「更級日記」といった日記は、人に読まれることを前提とした文章という点で、「日記帳」よりも「ブログ」に近いものというのに類するか。

目先のことだけで、おろおろしてはいけないね。もっと大きく捉えると、自分が認知できていないくらい大きな流れの中に居るかもしれないんだ。自然の流れで自分から離れていくものを、無理に引き止めてはいけない。今、もしも波が荒れていても、希望と、the vision of the image of me(自己イメージについてのヴィジョン)さえ失わなければ、なんとかなるに違いない。

失ったもの。 : すみきちブログ。

限られた時間を使って、自分のことを、「自分と相性がいいように」ちゃんとアップグレードしていけるかどうか。それが、人生のわかれみち。自分と相性が悪い人生なんて、最悪だし。わたしも、時間と、プライオリティと、the new vision of the image of me、を大事に歩む決意(決意というか、もう自然な心的欲求なんだけど)を胸に・・・。

心構え。 : すみきちブログ。

流れに飲まれそうなときには「希望」と「自己イメージについてのヴィジョン」を持つこと、そして流れを作っていくためには「時間」と「プライオリティ」と「新たな自己イメージについてのヴィジョン」を意識すること。
"the vision of the image of me"は、短く「理想の自分」と意訳できる気がする。だけど「理想の自分」という単語、「28歳のいい大人が自分探しとは目出度い話だ」という指摘を受けてしまいそうで、口に出すのははばかられる(28歳が本当にいい大人かどうかという問題は、さておき)。
だけど、自分はこういう人間でありたいというビジョンを持つことは、何歳になってもきっと必要なことで、それは何故かというと「変化し続ける外部環境に如何に適応し続けるか」という問題意識そのものだから。一方、いわゆる「自分探し」というのは、「理想型がどこかにあるはずだ」というユートピア的な思想なので、閉じられた思考の迷路に陥ることになる。

「緊張感を持って生きる」っていうごくごく当たり前のことなんじゃないの。家族がいれば、家族と一緒に幸せに生きていくための最低限の原資を稼ぎ続けるぞっていうのはサバイバルだし、どんどん変化していく世の中でプロとして簡単にコモディティ化しないぞと決心してスキルを磨くのもサバイバルだし、勤めている会社が突然つぶれたときにちゃんと他社から誘われたり独立できるよう準備しておくなんてのもサバイバルだろうし・・・。

サバイバルって当たり前のことなんじゃないの - My Life Between Silicon Valley and Japan
  • そして、値下がりしたもの
  • コモディティ、オワタ/(^o^)\!!!
  • 体験(experience)はコモディティ(commodity)にしようがない
  • 持つな、もてなせ。
小飼弾 404 Title Not Found - 【Watcherが展望する2008年】 コモディティとならざるもの:ITpro

数年前までは、ポストバブルの日本は「知識創造企業」や「知的経営」だと聞こえていたはずなのに、既に世の中は「フラット化する世界(上)」になりつつある。これは、個人のレベルでも同様で、「自分の価値のコモディティ化からのサバイバル」を本気で考えねばならない。
じゃあ、今年いったい何をやるのか?ということについては、あえてここに宣言することでもない気がするので、このエントリーをしおり代わりにしていくことにする。