ガヤ→ブッダガヤ

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7時起床。朝食をとりに駅前の定食屋に入る。店の女の子にチャイの値段を聞くと、5Rsという。そこでは我慢をして、街角のチャイ屋台で1.5Rsで飲む。今日ブッダガヤに出発する前に、その次の目的地であるバラナシまでの長距離列車のチケットを手配しておこうと、駅に向かう。

発券を受けようと窓口に行って乗車日と目的地を伝えると、「16時発の列車はキャンセル待ち」と告げられる。どうしようかと伊藤と相談をしていると、それをもどかしく思ったのか、駅員は我々に横に退くようにといって、行列の次の人を窓口に呼び寄せた。訳が分からないまま切符購入に失敗をしてしまった。

キオスクで時刻表を買い求めて、再度窓口の行列に並んで同じ駅員に再チャレンジするも、指差した時刻の列車はやはりキャンセル待ちだといわれて、再び窓口から弾き出されてしまう。今度こそと3度目に行列に並びなおして、22時発の乗車券を353Rsで入手できた。

やれやれと行列を離れて切符に書かれた文字を見てみると、そこには「240Rs Only」と印刷されている上に、予約されたはずの座席番号はどこにも印刷されていない。切符を発券した駅員に座席番号について尋ねるも、「当日に分かる」とだけいわれる。切符に印刷された料金と支払った代金の差額の意味については尋ねることすらできなかった。

Hotel Classicに戻り、宿の親父に切符を見せると、「これはキャンセル待ちのチケットだ」といわれる。そこで初めて適当にあしらわれたことを確信する。駅員に対する怒りが沸いてくるが、今更どうなるものでもない。

そんなことを話していると、宿の親父は「2人で50Rsのコミッションで俺が席を取ってきてやる」と持ちかけてきた。この切符は優先順位が60番目のチケットだといっていたのに、どうしてそんなことができるというのか?すると親父は、駅員に友達がいるから絶対に大丈夫なのだという。

伊藤は、もう他に方法も見つからないのだし、彼に頼んでしまおうという。だけど僕はどうにも彼が胡散臭くみえてきて、代金と切符をあわせて持ち逃げされたらどうするのだと不安を表明する。じゃあ証文を書いてもらえばよいと伊藤はいう。50Rsと切符を親父に渡して、代わりに紙切れに「預り証」を走り書きしてもらって受け取る。

あとで振り返れば、昨日自分のことが書かれた「地球の歩き方」を見せてくれたときの誇らしげな親父の態度を見れば、彼が信用というものを大切にしていることくらいは分かるはずだ。だけど、その時の自分は「これでだまされていたら、落ち度は100%我々にあるのだし…」と、ネガティブな思考のループに陥っていた。きっと疲れていたのだろうと反省。

さて、ようやくブッダガヤに向かおうとして、客引きに来たサイクルリクシャーと交渉をして、60Rsでいってくれることに話がまとまる。だけど、停車場まで連れて行かれてみると、「今日はホーリーの日で、サイクルリクシャーで行くのは危ないから、100Rs支払ってオートリクシャーに乗れ」と、突然持ちかけてくる。話が違うじゃないかと怒るが、ここでもだんだんに面倒臭くなってきて、値引き交渉をして90Rsで決着をつける。

オートリクシャーに乗って一路ブッダガヤに向かう。走り出してしばらくして、市街地を抜ける頃に、突然道路わきの人から赤い色のついた水を掛けられる。エアー・インディアの機内誌で調べていたホーリーの日付はとっくに過ぎていたはずなのに、これでは話が違う。などと考えている暇もなく、次から次へと赤い色水の攻撃は繰り返される。水鉄砲で掛けられるくらいなら、まだかわいいものだけれど、家の2階の窓からだとか、バケツ一杯激しく掛けられたりと容赦のない攻撃を受け、町を抜ける頃には2人とも全身ずぶ濡れになってしまった。ブッダガヤに到着。伊藤とお互いを確認するも、全身ピンク色に染まり、手に持っていたガイドブックまでもが赤く染まっていた。

今日の宿となるチベット僧院に荷物を下ろし、町に出て屋台で昼食。二人で84Rs。宿に戻りシャワーを浴びたりホッとしたりしながら、4時まで時間をつぶす。その後マハー・ボーディ寺院に行き、絵葉書を買い求めて中をひとまわりする。寺院の中は宗教的な雰囲気に包まれていて、(錯覚かもしれないけれど、)心が洗われたような気になる。

清々しい気持ちでマハー・ボーディ寺院を出て、日本寺のある方向に歩いていく。落ち着いた寺院とは正反対に、下界では数多の物乞いや物売りのインド人が次々と話しかけてくる。そんなインド人に対して伊藤が高圧的な態度であしらっているのをみると、妙に違和感を感じる。だけど、よくよく振り返ってみれば、自分だってまったく同じような態度で次々とインド人たちをあしらい、無視し、そして拒絶しているのだ。

「我々は、結局のところ金を持ったただのツーリストに過ぎなくて、ここは彼らの国なのだ。無視することはできたとしても、強く拒絶したり、高圧的な態度で叱りつけたりするのには、注意深くならなければならない。相手は商習慣としてやっているのに過ぎなくて、我々は結局のところ彼らの世界のビジターなのだ。相手のルールを充分に理解できていないのは我々のほうなのだ」

などと、寺院の神聖さも借りて、しばし反省する(だけど、次に物乞いに話しかけられたときには、そんな反省なんてすぐに忘れて、再び高圧的に拒絶する日常に戻る…)。昼と同じ食堂に入り、夕食。メニューは同じようなものであったのに、値段は二人で29Rs。昼食の三分の一の値段だった。値段を確認し忘れた我々の負けだった。

「結局のところ、これはゲームに過ぎない。負けは素直に認めなければならない。真剣に怒ってしまってはいけないのだ」

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この日の日記を見ると、一日に何度も訳の分からないことが起こったり、騙されたりして、心が荒み、そして寺院に入って心が洗われて、そしてまた荒み…という繰り返しがありありと思い起こされることになる…